推しが脱退する話

正確に言えば推しが脱退“した”話なんだけれども

界隈に迷惑をかけたくないので、色々ぼやかして書いていきたい。

 

兎にも角にも先日、生まれて初めて“推しの脱退”を経験した。アイドルオタクとしてかなり長いこと生きているが、今まではどうしても「脱退」ということが起きづらい界隈で生きていたのと、私の推しが界隈の中では比較的長く活動してくれたのもあって、今になって初めてこんな経験をした。

脱退が発表されてから推しにとっての最終公演までに大体2週間程あっただろうか、その期間の心の揺れ動きようと言ったらま〜〜ぁ酷かった。正直今も心に穴が空いたような状態が続いている。多分ある日突然恋人が死んだらこうなるんだろうな、と思う。

 

感情をある程度失ってしまっているため、わけも分からず涙がこぼれたり、激高して熱か毒か分からぬものをインターネットの海に流すことも無かった。ただ虚空を見つめるだけの時間が過ぎていった。

 

脱退が発表されてから数時間後に、今書いているような覚書を残そうとしたものの一部がこれだ。文のクセが強いことはさておき、感じていたことは大体正確に残されていると思われるが明らかに正気ではない。ちなみに実際には最終公演4日前に泥のように泣いた。多分その時初めて脱退を実感した。

 

私の推しの紹介が遅れてしまった。訳の分からない何かが脱退した話をここまで続けていたことを猛省しつつ、推しの話をしよう。

脱退した推しは所謂“地下アイドル”というやつだった。チケットが外れることは基本無く、恐らく他の界隈と比べてチケット代そのものも安く、さらにチェキ撮影で会話もできる。他の界隈と比べても、推しとの距離はかなり近い。そんな状況で、さらに脱退までに公演をやってくれるという時点でかなり恵まれている方だと言えるだろう。正気を取り戻しつつあった当時の私は、まずチェキ撮影の時に何を話すか考え始めた。恐らく涙とファンデーションに塗れた醜悪を晒しながら会話することになるだろう、ということは目に見えていたので、せめて会話内容くらいは整理しておきたかったのだ。

 

「○○(推しの名前)が幸せでいてくれたら私も幸せです!」

そんな一文を付け加えようとして、ふと手が止まる。先述したように、私の推しは地下アイドルで、当然その「○○」というのは活動名だ。推しは最終公演で活動を終えて、○○は死ぬ…… とまでは言わなくても、これから一生呼吸をすることは無くなる。そこに残るのは、○○として活動していた一人の人間だけだ。私は今の時点で、その人間の幸せを祈ることは出来るのか? そもそもそんな資格があるのか?

 

少なくとも現時点では、私は○○のことも、○○として活動していた一人の人間のことも好きだ。私の推しは裏表が無くて、アイドルが好きで、強かな人間で、憧れで、そんな推しを応援したいと思っている。ただそれは、もちろん偶像である可能性もあるという話だ。様々な界隈で「転生」という言葉が本来の意味からは外れて使われ始めてから久しいが、私も界隈にそこそこの期間籍を置いている人間として様々な「転生」を見てきた。もちろん再びアイドルとして活動してくれる可能性があることも知っている。

それと同時に、転生に最悪なケースがあることも知っている。いま一番有名な「そういう」例で言うと、界隈は変わってしまうが何時ぞやの解雇されてしまったVTuberと、それによく似た声の配信者が思い浮かぶかもしれない。あれを転生って言うのかどうかは微妙だけど解雇がなんだ原因がなんだの話は抜きにして、転生とその後の顛末に関しては正直「よくある話だな」と思っていた。その頃は自分の推しが脱退するなんて露ほども思っていなかったので、他人事としてその一連の事件をTwitterで見ていた。

 

ただアイドルオタクというのは傲慢なもので、自分の推しのことになると話は別なのだ。正直私にとって推しは“推し”であると同時に憧れの対象で、けれども別の言語で「偶像」と言う以上、その性格(キャラクター性って言った方がいいのかもしれないけけどあんまり使いたくない。この辺が傲慢ポイント) がある程度作られたものだとしてもまあそんなもんだよな、という気持ちでいた。だがもしある日、私の推しとして活動していたその人が、最悪なケースで再び現れたらどうなるのか?もちろん応援する義務があるとは思っていない。ただ問題なのは、その時に私の推しという「偶像」が蔑ろにされることである。この恐怖を言語化するのはめちゃくちゃ難しいし、アイドル(というか一人の人間)のセカンドライフに口出しするんじゃねえよっていう話ではあるけれども。

 

教徒にとっての神が死ぬ瞬間、子供にとっての親が死ぬ瞬間。それらと同等に並べられるかどうかはさておき、限りなくそれに近い事が起ころうとしているのではないか? そんな恐怖を感じてしまっている。

 

先述した覚書の中にもこんなことが書いてあった。おそらく言いたかったことは同じだと思う。ここにもあるように、精神の安定を推しに委ねていた面は否定できない。もし推しの偶像がどこかで壊れてしまった時、ちゃんと生きていけるかどうかは正直分からない。自分の精神と推しだったその人のやりたいことを天秤にかけてどちらが勝つかどうかは、その時になってみないと分からない。私は「その時」が来るのを、今後もずっと期待と不安と共に待ち続けるのだろう。それこそ就職などの人前に出ない道を選んだ時に何かしらの形で「就職しました!」と一言言ってくれればどんなにいい事かとも感じるが、それはさすがに傲慢が過ぎる。

 

とにかく、推しとして活動していたその人が○○という偶像のことをどう思っていたのかが分からない以上、○○の幸せを願うことに意味なんてないのではないかと思ってしまった。私がアイドルやインターネットに触れ始めた頃は、「前世」やら「転生」やらの概念は存在せず、今回初めて私の推しが「前世」扱いされる可能性や、推しとして活動していたその人が「転生」する可能性に触れた。その可能性は、恐らく私がこの界隈で生きている間にゼロになることは無いだろう。いつか来るかもしれないその時に、応援を義務だと思い込まないようにしなくてはならないと思う。

 

結局私は推しの幸せを祈ることはなく、正確に何を言ったかはあまり覚えていないがぐちゃぐちゃになりながらも「ありがとう」「お疲れ様」みたいな事を言った気がする。推しとして活動していたその人のセカンドライフが幸せでありますように、と本人に伝えるにはあまりにも乗り越えるべきメタが大きすぎると判断した。もっと自分の気持ちの言語化が上手に出来たらと、これほど後悔した時は無い。